京都祇園で起こったこと

本当に衝撃的な事件でした。

大勢の観光客のいるところに車が猛スピードで進入して多くの人たちを死亡させ、重傷を負わせたという事件でした。

はじめは、病気のせいで意識を失っていたためではないかと思われていましたが、それがだんだんと警察の捜査が進むうちにそうではなく、パニック状態での暴走であることが疑われるようになり、殺人の疑いでの捜査が進められているとの報道がありました。

その根底には病気を隠して自動車を運転していたことがあったのではないかと思われる節があります。

確かに、仕事には車の運転が欠かせない時代となっていることを考えると、病気を隠して運転免許を取得しようとする誘惑は大きいと思います。

しかし、事故を起こしてしまったときの結果の重大さは今までにも何度も報道されています。

担当医師の会見では運転してはいけないとはっきりと告げられていたとのことです。

それにもかかわらず運転していてタクシーに追突し事故を起こしてしまったことで、パニックになってしまったことが考えられるということです。

死亡してしまったこの若者に直接聞くことはできなくなってしまいましたが、もうどうなってもかまわないとの思いになってしまったのではないかと推測されます。

本当に、悲しい出来事になってしまいました。

被害にあって亡くなられた方々、また重傷を負われて苦しんでおられる方々また、これらのご家族、かかわりある皆様にお見舞いを申し上げます。

さらに、事故を起こしてしまったこの若者の家族、親族の心痛もまた計り知れないものがあると思います。

病気を隠して運転免許を取得したこと、そして運転してはいけないのに仕事のために運転していたこと、そして事故を起こしたときその場から逃げようとしたこと、これらのことが重なった結果だったのではないでしょうか。

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。 新約聖書 ヨハネ 12:46

この若者が勇気を持って、光の中に自分の病気を明らかにしていたならと悔やまれてなりません。

 

 

イースターに思われたこと

私にとっても、また主を信じるすべての人々にとっても、主イエス・キリストの復活はどんなことにも代えることのできないすばらし出来事であり、みんなが喜び祝う時を過ごしたことと思います。

その喜びの中にあって、私は主が十字架にかかられる以前の主に従った弟子たち、また主の愛の中にあった女性たちのことを考えています。

弟子たちは何度も主からご自身が十字架につけられて葬られ、蘇られることを主のお話のなかで聞いていました。

しかし、実際に主がユダの裏切りによって捕らえられ、十字架につけられて葬られてしまうと飼い主のいない羊のように、ただおびえているだけの群れとなってしまいました。

いっぽう女性たちは、主の遺体にできるだけのことをしようと、週の初めに主の葬られた墓にいろいろな心配をしながらも出かけていきました。

弟子たちは男性なのにただみんなで閉じこもっているだけの情けない状態になってしまっていたのに、

いっぽう弱いはずの女性たちは心配しながらも主の墓に出かけて行ったことで、心配していたことがすっかり解決されていて主のすばらしい復活の出来事を知ることができました。

この違いは何だったのでしょう。

強いからか、知識があるからか、知恵があるからだろうか。

これらの女性たちはただひたすらに主を慕っていただけではないか。

私はこんなことをこのイースターを通して思っています。

 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれであれ、求める者は受け、探す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。新約聖書 マタイ 7:7,8