主イエス・キリストに従う

恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。 新約聖書 ルカ 12:5

主イエス・キリストに在る者の幸いをしみじみとかみ締めています。

それは、神との和解が私に与えられているからでしょうか。神がご存知です。

私たちの主イエス・キリストが私たちに代わって十字架にかかってくださったことによって神の怒りから開放された私たちは、いま主イエス・キリストにあって罪を許されています。

なんと感謝なことでしょう。

しかし、主は私たちになんと言われているのでしょうか。

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 新約聖書 ヨハネ 15:4

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。 新約聖書 ヨハネ 15:12

このみことばが、主を信じる私たちの間に成るように祈ってまいりたいと思います。

いま、主は私になんとおっしゃっておられるのか思い巡らしています。

”わたしに従いなさい。 ”

心に響いて来ます。そして私も主に心から従って行きたいと思います。

また主に従って行けたらどんなにすばらしいかとも思います。

しかし、主に従って行くとはどういうことで、どうすることでしょう。

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」 新約聖書 マタイ 16:24

このみことばの前後を読みますと、いずれも、弟子たちに自分をだれだと言いますかと尋ねられています。

そして、ペテロが答えて「神のキリストです。 」と言っています。

その後、ご自身が十字架にかけられてよみがえられることを話されています。

自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。 新約聖書 ルカ 9:24

イエスさまは、わたしに従って来る者はいのちを救うとおっしゃっておられます。

まことのいのち、永遠のいのちを獲得するとおっしゃっておられます。

永遠のいのちがいただけるならば、それでは従いますとみんな口先では言えると思います。

しかし、実際にはできないと言うのが私の気持ちです。

まず、自分を捨てるなどと言うことはできません。

さらに十字架を負うなどとは真っ平ですと言うのが本心ですと言わざるを得ません。

イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。新約聖書 マタイ19:16ー22

この青年は多くの財産を持っている自分を捨てることができなかったのだと思います。

また、あの旧約の時代、最高の王と賞賛されていたダビデ王でさえ、ウリヤの妻と不倫を犯し、それがばれないようにと、戦争の最前線に送って、殺してしまった。

また、ペテロはだれがイエス様について行かなくても私だけは、ついて行きますと言っていたのに、三度ものろいをかけてまでイエスさまなんか知らないとまで言いました。

これらのことは自己保身の結果であったと思います。

あのアブラハムさえ、そうでした。

アブラムと呼ばれていたときに、カナンに飢饉があったとき、エジプトに行った時がありました。

彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。

エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。

どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」 旧約聖書 創世記 12:11-13

このように言ったので、サライはパロの妻として召しいれられてしまいました。

ただ、神のあわれみのゆえに、パロは彼をその妻と、彼のすべての所有物とともに送り出しました。

このように人は、自分に不利と思えることも、自分を捨てることも、ましてや自分のいのちにかかわる事においてはまったくと言っていいほど自己保身な存在であることは言うまでもありません。

ではどうすれば、イエスさまのおっしゃっておられるようになるのでしょうか。

それはただ神にかかっていると思います。

イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」 新約聖書 マルコ 10:27

主の愛をいただく者

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており,いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 新約聖書 1ペテロ 1:8

主の愛はどのような方々にも等しく与えられるものであると思っています。

しかし、その主の大きな愛をいっぱいに受け止めることのできる人は誰でしょう。

いま私は、弱いながらも、力がなくても、また大きなことができなくても、ただひたすらに主に従って行きたいとの思いが私の心を満たしています。

それは神の子どもとして主に愛されているからでしょうか、または、主の愛に満たされているからでしょうか。

従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、

あなた方を召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。

それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。 新約聖書 1ペテロ 1:14-16

ふさわしくない者を、御自身が聖であられるようにお前も聖なる者になりなさいとおっしゃってくださることをありがたいと思います。

今回、私の身に起こったことを考えております。

最初は、直腸癌から来る腸閉塞で入院をして直腸癌を摘出手術をしました。

その後、経過はよく今に至るまで、順調に回復しております。

しかし、今度は前立腺癌が蔓延していて骨にまで転移していました。

骨に転移をしているので手術はできないとのことで、ホルモン療法と免疫を高める方法で、

今は、経過を見ております。

もちろん、私の罪がこの結果を招いたことですが、その背後には主の聖さにあずからせようとの主の御愛があったと思っています。

私には、ポルノを見たり、読んだりする習慣から抜け出せていない悩みがありましたが、

ホルモン療法をするということで、この習慣から離れることができました。

自分の力で、この罪から離れることができない私を主はあわれんでくださったと今はむしろ感謝しています

何事もなくことが進んでいれば、相変わらずに罪を犯し続けていたでしょう。

見えるところ最悪に思えることの中に、主の御愛が満ちていることを体験させていただきました。

主は、罪から離れることのできない私をあわれんでくださってわたしに従いなさいとおっしゃって下さいました。

あらためて、主の歩まれたその御跡に従って歩まされたいと願わされています。

主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。

悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。

主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。

私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道はあなたがたの道と異なるからだ。

────主の御告げ────

天が地よりも高いように。わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、

わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。 旧約聖書 イザヤ 55:6-9

ハレルヤ! 再度の検査で骨には転移がないことが判明しました。

見ずに信じる者の幸い

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」新約聖書 ヨハネ 20:29

イエスが十字架にかけられて復活された時のことです。

十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。

それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私はその手に釘の跡を見、わたしの指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。

八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。

それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」 新約聖書 ヨハネ 20:24-29

復活された主イエス・キリストは弟子たちに繰り返しご自身を現されました。それは、主が十字架にかかられる前に弟子たちに、十字架にかかって復活されることを話されていたのに、弟子たちはそれを信じることができなかったからでした。

信仰の薄い弟子たちを主が思いやってのことだったのでしょう。

その中でも特に疑い深いトマスにこのようにされたのは、信仰の薄い者であっても主の復活を信じることができるまで主は顧みてくださる優しい方だからでしょう。

しかし、神は私たちの信仰を善しとしてくださいます。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。 新約聖書 ヘブル 11:6

信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。

神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、

彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。 新約聖書 ヘブル 11:17-19

蘇られた主は、このトマスにこのとき言われたことを私たちにも言われているのではないでしょうか。

主イエス・キリストをさらに深く知りたいと願わされます。

 

永遠のいのちのことばを持っておられる主

すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」新約聖書 ヨハネ 6:68

シモン・ペテロがこのように主の前で告白することが出来たことはなんと幸いなことかと思います。

これはペテロが立派で知恵があるからだというのではないと思います。

イエスさまについて行くうちに、イエスさまがどのような方かを知らず知らずのうちに知らされていったのではないでしょうか。

イエスさまのおことばを聞き続けていくうちに、本当にイエスさまのおことばが私を活かしてくださると、そのおことばの生きた事実を体験していたのだと思います。

私たちも、イエスさまのおことばを聞き続けて私たちを本当に活かしてくださることをシモン・ペテロと同じように体験したいものです。

主イエス・キリストに対する私たちの態度

群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、

岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。

イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。

話が終ると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。

するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」

そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。 新約聖書 ルカ 5:1ー6

私たちは自分の考えや、判断が正しいといつの間にか思ってしまっているのではないでしょうか。

そして、自分以外の考えや、判断を聞こうとしないそのような人になっていることに気がつかないでいることが多いと思います。

しかし、シモンは違いました。

湖でいつも漁をしている漁師である自分たちが、夜通し働いて漁をしたのにとれなかったのだからとれるわけはない、と言って断ることはせずに、

でも、おことばどおりに網をおろしてみましょうと、網をおろしました。

そのとおりにすると、たくさんの魚がはいっていました。

このみことばはイエスさまに対する私たちの態度がどのようにあるべきかを示していると思います。

自分の考えはこうだ、「しかし、イエスさまがそのようにおっしゃるならそのようにします。」と言っていくところに主のみわざを見ることができることを示していると思います。

イエス・キリストは教師

あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。 旧約聖書 イザヤ30:20

私たちは、私たちを教えてくれる先生がいくつになっても必要な存在であることはあなたご自身がよく理解していると思います。

幼児であっても、少年であっても、青年、成年、老年どんな世代でも私たちを教え導いてくれる存在が必要です。

その必要な教師が、いつも私たちの目の前にいて隠れることなく教え導いてくださるのです。

私たちは実は目の見えない者なのではないでしょうか。その目の見えない私たちを教え導いてくださる教師、それが主イエス・キリストです。

私たちが聞くべきお方

それから六日たって、イエスは、ペテロとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。

そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光りのように白くなった。

しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。

すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。

すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた。

それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。 新約聖書 マタイ17:1ー8

ここに弟子たち以外に、三人の人物が登場します。

我らの主イエス・キリスト、それから律法を代表するモーセ、そして旧約の預言者を代表するエリヤ、

確かにこのような場面に遭遇したら、私たちもペテロと同じように、見当外れなことを言ってしまうと思います。

しかし、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

この御声は天地の創造者、全能なる神、また天の父なる神である方のものですが、この御声に耳を傾けたいと思います。

旧約の律法も、預言も、すべて主イエス・キリストを指し示しています。